留学, 異文化理解

宗教という名の壁 ~コーヒー事件と、ビッグバン理論~

 

外国人と接する際に避けては通れない話、宗教。

アメリカ留学中に、春樹が最も大きな影響を受けた経験のひとつ。

日本人には少し希薄な、あまり身近でない、宗教の話。

異文化理解の一つとして、日本では決して出来ないであろう体験の回想録。

いい意味でのカルチャーショックを受けた。

 

 

目次

  1. キリスト教の宗派とは
  2. 彼らの強い信念と強さ
  3. ただ、時には視野が狭すぎることも
  4. わざとコーヒーをこぼされた話
  5. 教会でのモダンな音楽ライブ:キリスト教という音楽ジャンル
  6. 地球の誕生について、大激論
  7. 貞操感と信仰心のレベル:十人十色
  8. 聖書が日本語だと嘘っぽく聞こえるのは何故か

 

 

1.宗派の分類

 

ご存知の通り、アメリカはキリスト教大国。

大きく3つの宗派に分かれている。

 

  1. カトリック (Catholic) ・・・総本山はバチカン市国でトップはローマ教皇。欧州諸国・南米。
  2. 正教会 (Orthodox church) ・・・古代東ローマ帝国が起源。西欧諸国・ロシアなど
  3. プロテスタント (Protestant) ・・・後発。英国・アメリカ・北欧など

 

春樹の留学していたのはアメリカなので、大きな分類の中ではプロテスタント、

学内でよく通っていたクリスチャンの集まりはBaptistという宗派に属していた。

大きな分類の中では、アメリカではプロテスタントという宗派になるが、

その中での最も大きな宗派がBaptistらしい。

 

Logo of the Southern Baptist Convention,
the largest Baptist group in the United States.

バプテストBaptist、漢:浸礼教会、しんれいきょうかい)は、バプテスマ浸礼での洗礼)を行う者の意味に由来しており、イングランド国教会分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派。個人の良心の自由を大事にする[1]

 

↑Wikipedia「バプテスト教会」より引用

日本国の仏教における、浄土宗・日蓮宗などの分類と似たようなものだと思ってもらったらいい。

 

 

 

2. 彼らの強い信念と強さ

 

「個人の良心の自由を大事にする」まさにこれを体現しているのがアメリカ。

宗教の自由もあれど、ほとんどのアメリカ人はご存知の通りキリスト教に属している。

自分が留学していた際の周りのアメリカ人も、99%はキリスト教であった。

そんな彼らは、もともと自分の意見や大切にし、それを遠慮無く・躊躇なくはっきりと主張する文化が日本とは大きく異る点だが、それはキリスト教であるということも、ある程度影響しているかもしれない。

何故かというと、彼らの自らを信じる強い信念は、キリスト教であるところから影響している部分もあるということだ。

どういう事かと言うと、彼らの信じる力、というものが日本人と比べて強いと感じたからだ。

 

自分が留学した際、周りには本当に色んな意味でキリスト教を信じることで生きている。Jesus(イエス・キリスト)にすがっているといえば聞こえは悪いが、彼ら・彼女らには心の拠り所というものがある。何か辛い事があった時、何か困難にぶち当たった時、そんな時に彼らはいつもJesusに問いかけ、教えを乞うていた。そして困難を乗り越えていた。実際に、自分の進路や将来に悩んでいるアメリカ人のある友人は、そう口にしていた。

自分はキリスト教徒でもないし、Jesusを信仰している訳ではないが、彼らの信念の強さや何かを信じる力は、このJesusを通して答えを導き出そうとし、困難な道を切り開いていくそのプロセスにあるのでは、と垣間見た瞬間だった。日本人は仏教信仰国ではあるが、お盆や墓参り、葬式や厄払いといった特定の行事を除いては、仏教、つまりブッダを意識することはない。キリスト教信仰者たちは、個人でその信仰心に程度の差はあれ、イエス・キリストを日頃から意識していて、日常の一部となっている。ここが日本とは大きくことなる点であり、性格や文化の違いにも大きく影響している。

もちろんこれはキリスト教に限らず、イスラム教やヒンドゥー教など、他の宗教にも言えることだ。何か信じるものがある・何かの心の拠り所がある、ということは強いのだ。

 

 

 

3. ただ、時には視野が狭すぎることも

 

そんな彼らにも、というか人によっては、その信仰心が強すぎるあまり、どんな話をしてもJesusに結びつけてしまい、具体的な議論にならず、ものすごく曖昧な結論しか出ないこともある。

例えば、自分が将来何になりたいか、何を目標に頑張ったら良いかという悩みを打ち明けると、Jesusに問いかけてみて、彼なら答えを知っている、とか、そんな結論に終始してしまうことが何度かあった。これは、別にその相手が悪い訳ではなく、その彼女は自分が信じているJesusから答えを導き出そうと、心からそう思っているからそういう答え方になっているのだが。。。自分はそこから何とか議論を方向転換しようと何度か試みたのだが、やっぱりJesusの教えに集結してしまうので、その当時は困った思いをした。

彼ら・彼女らは悪気など微塵も無く、本当に心からそう信じているのでそう答えているのだが、こと建設的・具体的な議論をしようとすると、話が噛み合わないことが、人によってはある。もちろん、キリスト教の中でも信仰心が高い人たちが皆こんな感じでないのだが、Jesusに囚われすぎるあまり、視野が非常に狭くなり、マトモな議論にならないことがたまにある。人によるが。

 

 

 

4. コーヒー事件

 

アメリカ留学中、毎週金曜日の夜はあるキリスト教の集会に参加していた。

ちょうど現地に到着したばかりの頃、共に来た日本人数人以外は全く知り合いが居なかったので、

友人をつくるために参加したことがきっかけだ。

もう一つの理由が、タダ飯がもらえたからだ。

ただ、食事のあとに、キリスト教の教えをもとに、自己啓発というか、

あるトピックについてグループで議論をすることになっていた。

まあ、英会話の上達にもなるし、友人も増えるしちょうど良いかなと思っていた。

 

毎週、例えば聖書の一節を引用して、それについてみんなでどう思うとか、またそこから導き出される普遍の心理や、現実に応用出来そうな教えなどを議論していた。

自分はどちらかと言うと、はっきりものを言う性格なので、たまに自分の意見がキリスト教に沿ってないと、ガチで反対される事が度々あった。自分自身、少し頑固な性格でもあるので、自分と反対する意見に対しては、当時はっきりと反論したりしていた。

ある南米系の肌の色をした、メガネをかけた少し小柄なアメリカ人だったと思う。そんなに若くなかった、恐らく30代後半から40代前半くらいだろうか。その容姿は今でもはっきりと覚えている。ただ、具体的になんの話が発端であんな事態になったのかは今では覚えていない。

とにかく何か意見が対立したのは覚えている。そして、話が落ち着きかけた瞬間に彼がコーヒーをこぼしてしまったのだ。テーブル上でこぼされただけなので、別に火傷をしたとかそういう事はではない。向こうにそんな悪意があった訳ではなく、故意にやったわけではない、たまたま手が引っかかったんだろうと、その当時はそう思っていた。。。

 

それから数ヶ月が過ぎ、留学も終わりに差し掛かり帰国が迫ってきた。

自分ともうひとりの日本人の友人とで、お別れパーティを開いてもらうことになった。

会場は、例のキリスト教の集会場であったので、そのメンバーも多数集まってくれた。

その中には、例のコーヒーをこぼされた彼もいた。

今日で最後、今までありがとうと、最後のお別れの挨拶を皆にしている際に、

彼からいきなり謝罪をされたのだ。

コーヒーをこぼしたのは、あれはわざとだったと。。。。

。。。

。。。

。。。

わざとだったのかよ!!(驚)

 

正直、俺もそこまで気にしてなかったし、たまたま手が滑ったんだと思ってたのだが、そうではなく、完全に故意でやったことだったと。マジかよとその時は思ったが、今思い返してみれば、それほどに彼の気に触ったということだ、俺の発言が。

 

宗教の違いがあって、こんな些細な事で対立したりする。

というか、周りからしたら、みんな些細なことかもしれない。

(カップルや夫婦の喧嘩と一緒ですね)

これが世界クラスで起こっているのが、戦争や紛争だと思うと、妙な納得感がある。

宗教の違いによって起こる。

考え方の違いによっても起こる。

実際に対立している際の喧嘩の仕方は全然違うが、本質的に問題の根本は同じだと思う。

 

 

 

5. 教会でのモダンな音楽ライブ:キリスト教という音楽ジャンル

 

これは別に宗教の壁とかではなく、単純に音楽の関連する話。

日曜の礼拝の際に、比較的大きな教会に行くことがあったのだが、時々ライブが行われるのだ。

礼拝に合わせた、厳かで静かな曲調ではなく、どちらかというと

PopsやRockに近い、どちらかというと明るく前向きなアップビートだ。

これは正直教会やキリスト今日にはマッチしないんじゃないかと思っていたが、これが意外といい。

普通に小中高生から大人まで楽しめるような曲調で、馴染みやすい。

普通にライブ会場で使われるような音響機器を揃えて、

ボーカル・ギター・ベース・ドラムも全員揃っていて、

どこにでもいるありふれた感じのロックバンドのイメージだった。

これなら、キリスト教に馴染みがない人もとっつきやすいと個人的には思う。

 

キリスト教にまつわる音楽ジャンルで、歌詞もJesusにまつわる事が多い。

Wikipediaの説明が詳しい。

 

コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック (Wikipedia)

コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(「現代的キリスト教音楽」の意味、CCMとも言われる。)はキリスト教信仰に関係した歌詞に重点を置いた音楽ジャンルである。この音楽用語は、ナッシュビル、テネシーに基礎を置いた白人ポップ、ロック、AOR、AC、キリスト教音楽産業などに使用される。

 

ゴスペル音楽 (Wikipedia)

なおゴスペル・ミュージックには、1930年代から黒人教会で演奏され始めたブラック・ゴスペル(一般的にはこちらを指す)と、南部州の白人クリスチャンアーティストが歌っていたホワイト・ゴスペルがある。黒人と白人の教会それぞれが完全に分離していた(→人種差別ジム・クロウ法)ためと、黒人・白人のリズム間が異なるなどの理由で音楽性はかなり異なったものになっている。21世紀では、アフリカ系アメリカのゴスペルを「ゴスペル・ミュージック」、ホワイト・ゴスペルを「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック (CCM)」と呼ぶのが通例である。キリスト教会でもこれを用いる教会と用いない教会があるが、特に青少年のための礼拝にはバンドまで繰り出して盛んに使われ、ローマ・カトリック教会でも事実上若い信者の獲得のために公認している。

 

自分が当時教会で聞いたのは、ゴスペルといよりもコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックだったと思う。

まあこのアメリカでの音楽の歴史を辿ってみても、黒人・白人によっての違いが出ている。

 

また、自分が好きになる音楽は、そのグループの社会活動だったり、

メンバーの性格や音楽哲学が好き、ロックで反骨心むき出しの姿勢が好きとか、

音楽意外の内面で惹かれる事が個人的には多い。

というか、内面に惹かれないと、音楽だけでは好きになれる限界値があるように思える。

クリスチャン音楽も、単に音楽以上の魅力があり、それに惹かれているように思える。

というか寧ろ、音楽なんてものはオマケみたいなものであって、本質的にはJesusへの信仰、

信心が中心になっており(内面的魅力)、その魅力を音楽が増幅しているのかもしれない。

 

 

 

 

6. 地球の誕生について、大激論

 

これもまたキリスト教を強く信じる人と意見が真っ向から対立した話。

例の金曜日のクリスチャン集会で、その日は地球の誕生に関して議論を行った。

キリスト教旧約聖書で言うところの、創世記「天地創造」というやつだ。

 

Genesis Creation Narattive (Wikipedia)

 

The Beginning

In the beginning God created the heavens and the earth. 

Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the Spirit of God was hovering over the waters.

And God said, “Let there be light,” and there was light. 

God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness. 

God called the light “day,” and the darkness he called “night.” And there was evening, and there was morning—the first day.

And God said, “Let there be a vault between the waters to separate water from water.” 

So God made the vault and separated the water under the vault from the water above it. And it was so. 

God called the vault “sky.” And there was evening, and there was morning—the second day.

Genesis 1 (BibleGateway)

 

 

創世記 1章1-8節(口語訳聖書)
1 はじめに神は天と地とを創造された。

2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。

7 神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

天地創造 (Wikipedia)

 

 

神が天と地をつくった、と書いてある。。

宇宙と地球を最初に想像したと。。。

・・・

んなわけあるかと。

ファンタジーの世界なら分かる、そしてその前提で楽しめばいい。

聖書の世界観そのものは好きだ。

エヴァンゲリオンも大好きなので、尚更楽しめる。ファンタジーとして。

そしてもちろん俺は、聖書はファンタジーで読み物だと考えているので、

これが現実に起こったとは1ミリも思ってないし、その大前提で議論した。。。

 

そしたら案の定、また対立したわけですねー。

今回の相手は、40代くらいの背が高い白人男性。

ここでは、聖書男爵と呼ぶことにしよう。

 

男爵は、生粋のキリストっ子なので、宇宙や地球は神が作ったと本気で信じている。

そのスタンスで俺に全力主張してくる。

いやいやいや、宇宙はビッグバンが始まりで、地球はその後の星の衝突で生まれたんですって。

そう俺が主張したら、それは違うと男爵は真っ向から反論。なぜなら神がお作りになったからだと。

一方、俺はビッグバン理論を臆することなく展開し、こちらの方が科学的事実に

基づいているし、より現実的だと言い張った。

原子と原子のぶつかり合い、という論理的根拠もあるし、

神が作ったという話が俺は信じられないと。

だが男爵からすると、どうやらビッグバン理論の方がファンタジーらしい(笑)

 

 

議論は完全に平行線で、一致する気配が全くない。

以前のコーヒーおじさんのような物理的反撃は無かったが、それでも活発な議論になった。

男爵の主張はこうだ。

 

男爵

「お前は聖書を全部読んだことが無いのだろう?

 なら最初から最後まで全部読んでみろ。

 そうしたら俺の言っていることが本当だと信じれるようになる」

 

聖書の内容が完全にフィクションだということは、自分の中では全く曲がらないのだが、

ただこの男爵の主張には、こじつけでしか無いのだが、唯一、妙な納得感を覚えた。

そうだな、確かに俺は聖書を全部読んだ訳ではないし、読んでないのに真っ向から

否定するのは間違ってる。。。。。と一瞬だけ思いかけた(笑)

喧嘩にはならなかったし、最終的にはお互いを認めあって終わったのだが、

宗教の壁というか、宗教観の違いでここまで意見が食い違うとは、思ってもみなかった。

 

俺はこうした議論を通して、英語力を磨いていったのであった。。。。

 

 

 

7. 貞操感と信仰心のレベル:十人十色

 

クリスチャンの人々は、本当に信仰心に個人差がありすぎる。

女性の性格が千差万別なのと同じだ。

セックスの相性や好みが人それぞれなのとも似ている。

 

結婚するまでセックスNG、って人もいれば、全然OK!ってやつもいる。

お酒を全く飲まない人もいれば、酒好きで普段からガブガブ飲む人もいる。

ぶどうジュースだと思って飲んだのが実施は赤ワインで、分かった瞬間に吐き出すやつもいた。

かと思えば、毎晩のようにバーに繰り出してビールを飲んでいる友人も沢山いた。

余談だが、教会では、赤ワインの代わりにぶどうジュースが出てくるところもある。

すごいイケイケで一見チャラそうな兄ちゃんも、教会で祈りを捧げてたりするので、

見た目だけではわからないものだ。

 

食事前に必ずお祈りする人(やグループ)もいれば、そうでない人もいる。

キリスト教の信仰心や信心具合で、それぞれ個々人で取る行動に違いがあり、

その違いがその人個人をつくっているように思える。

各家庭によってもその信仰心に違いがそれそれあるし、それぞれ属するコミュニティや

友達グループでも違いがあり、自分の信心度合いに合わせた場所に属していくのだろう。

 

 

だから、外国人と話をするときは、彼・彼女がどこの国出身でどんな宗教を信仰していて、

その宗教に対してどれくらいの信心度合いなのかを掴んでおく必要がある。

でないと、俺みたいに意見が対立してしまう可能性もある。

これは、キリスト教に限らずの話で、仕事柄イスラム教徒と接する機会も多いので

その際にも十分注意するようにしている。過去の反省を生かして。

 

 

 

8. 聖書が日本語だと嘘っぽく聞こえるのは何故か

 

エボバの証人とか、たまに駅前とか道端でキリスト教を布教している人、見かけません?

自分も昔、何回かああいう勧誘に興味本位で行って話を軽く聞いたことがあるけど、

なんかやっぱり、胡散臭く聞こえてしまうのはなぜなのだろうか。。

まあ、最終的には教会や組織維持のための寄付金に結びつくのだろうけど、

もちろん彼ら・彼女らだって、同じ神を信仰している人が一人でも増えれば、

嬉しいことに変わりはないのだそうだ。

ただ、日本語だと、なぜか嘘っぽく聞こえるのよね。。。

この現象なんでだとと疑問を感じていたら、一つは言語の違いによるものだと学んだ。

 

もともと聖書はヘブライ語やギリシャ語で書かれたものを英語に訳しているので、

それを更に日本語に訳したら、意味合いも含めて微妙に変わってくるのだろう。

要するに、2回も訳して日本語に辿りついている。

2倍に薄めたオレンジジュースのようなものだ。

そしたら、味も薄い。

聖書の内容も、薄っぺらく聞こえてしまう。

日本語が欠陥言語だとも言われているが、その欠陥言語で聖書の内容を

正確かつビビッドに訳すこと自体に、そもそも無茶があるのかもしれない。

 

 

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